アンリ・ファーブルに学ぶ
虫の行動を忍耐強く観察し、心を澄ましてその意味を考え、あらゆる可能性を想定して仮説をたて、実験方法を工夫する。
その自在な心、自分の目で見たことしか信じない精神の強靱さ、何よりも、美しいものに驚く感受性の鋭さ。
日本アンリ・ファーブル会はそんなジャン=アンリ・ファーブルの精神と行動から人と自然の理想的な関係を学び、それを実践すべく様々な活動を行っています。
Jan-Henri Casimir Fabre 1823年12月21日~1915年10月11日 フランスの博物学者。 南仏ルーエルグ山地の村 サン・レオンに生まれ、幼年時代より自然に親しむ。 生涯を通じて様々な昆虫の観察・研究を行い、『昆虫記』を著した。 |
~ ファーブルの生い立ち ~
少年時代はロデーズの王立学院に学び、ラテン語やギリシャ語の古典を原語で読めるほどになるが、経済的には恵まれず14歳から南仏を放浪しながら肉体労働でその日の食料を得るような暮らしとなる。 しかし、学問への情熱は失わず、15歳のときにアヴィニョン師範学校の奨学生募集(宿舎も食事も提供される)に応募し一番の成績で合格する。 授業に退屈したファーブルは校長にかけあい、3年の課程を2年で修了し、残りの1年は一人で博物学やラテン語の勉強をして過ごした。 師範学校卒業後カルパントラの小学校の教師となり、児童がカベヌリハナバチの巣から蜜をとるのを見て昆虫の生態に興味を持つ。その後数学と物理学の学士号を取得。 25歳のときコルシカ島の中学校の物理学教師に任命される。コルシカ島で植物学者のエスプリ・ルキアン、博物学者のモカン・タンドンらと出会い、本格的に博物学を学び始める。 27歳のとき熱病にかかり療養のためアヴィニョンにもどる。快復後はアヴィニョンの高校で物理学を教えながら勉強を続け、30歳のとき博物学の学士号を取得。 翌年早くも博物学の博士号を取得し、植物や昆虫の研究論文を次々に発表する。狩りバチの研究では科学アカデミーの実験生理学賞を受賞した。 学問的には高い評価を得たものの、経済的には非常に苦しい状態が続いていたため、地元の産業に結びつく植物の研究を行い、アカネの根から赤い粉末染料を作ることに成功。多くの収入を得るかに見えた。 しかし、同時期にドイツで安価な化学染料が開発されたため、ファーブルの天然染料の需要はしぼんでしまった。それでもアヴィニョン市からは、市に多大な功績があったとしてガニエ賞を授与されている。 1868年、レジオン・ドヌール勲章を授与される。華やかな場より自然の中にいることを好んだファーブルは授与式出席を辞退するが、文部大臣デュルュイに促され不承不承パリに出向きナポレオン3世に拝謁した。 ファーブルの講義は進歩的なものであったが、それを快く思わない人も多く、保守的な人々から非難され、ついには学校を辞めることになった。 アヴィニョンでの生活基盤を失ったファーブルは、友人の英国人植物学者J,S,ミルの助けでオランジュに移転したが、教職にはつけず、科学の本を書いては僅かな収入を得る暮らしとなる。 ファーブルはこの家で記念すべき「昆虫記」の第1巻を書き上げた。 オランジュの家には美しい並木と庭があったが、ある日家主が並木を切ってしまった。腹を立てたファーブルは家族で家を出てセリニャンに向かう。55歳のときであった。 セリニャンの村はずれに小さな畑のついた家を見つけ、これを買って「アルマス(荒れ地)」と名付けた。 経済状態は改善されないものの、ファーブルはここで死ぬまで研究と執筆の日々を過ごし、昆虫記の第2巻から第10巻までを書き上げる。 1909年から「昆虫記」第11巻の執筆を開始。しかし、体の衰えが目立つようになり中断。1915年5月、家族に運ばれ庭を一周する。これがアルマスの自然を見る最後の機会となった。 1915年10月11日、偉大な科学者にして詩人であったファーブルは、永遠の眠りにつく。91歳であった。 葬儀は10月16日に行われ、埋葬の際、まるでファーブルを見送るかのようにカマキリなどの昆虫が墓石にとまったと伝えられている。 |
●受賞歴と名誉称号取得歴 1868 レジオン・ドヌール勲章 1881 学士院会員 1887 フランス昆虫学会ドルフュス賞 1889 プチ・ドルモワ賞 1892 ベルギー昆虫学会名誉会員 1894 フランス昆虫学会名誉会員 1902 ロシア昆虫学会名誉会員 1905 ジュニエ賞 1909 称号「プロバンスの詩人」 1910 2度目のレジオン・ドヌール勲章、リンネ賞 1913 ポアンカレ大統領公式表敬訪問 国内外から多くの寄付金を受けるが返金 |
「虫の詩人の館」の地下にはサン・レオンの生家内部が再現されています。
1階の展示室ではファーブルの「科学の不思議」直筆原稿始め、様々な昆虫や資料を展示しています。